幻想の国のバレリーナ

たとえば、テレビモニタの画面や舞台等で活動する、アイドルや歌手たち。目を背けたくなる災害を直接、または間接的に目の当たりにし、「自分のやれることをしたい」と行動を起こす人たち。
おそらくは、「みんなに元気を届けたい、気持ちを伝えたい」という気持ちが原動力になっているのだが、それは本当に万能なのだろうか?

(以下、2014年10月11日に公開開始となった映画について考察します。直接ストーリーには触れませんが、背景にあるものについて考察しますので、結果としてネタバレにつながる可能性があります。まだ当該作品をごらんになっていない方は、ご注意ください。)

たとえば、今まで五体満足で、自分の夢、やりたいことに向かって活動していたのに、それができなくなってしまったとき。そのとき、「自分は不幸だ」と思ってしまうのは、仕方のないこと。そこへ、「再び夢をかなえさせてやる」という声がかかれば、それに傾いてしまう。さらに、その「邪魔」をする存在がいるのだとしたら、たとえ相手が「正義の味方」であったとしても、再び自分の夢を奪ってしまう格好になるため、その人にとっては敵同然。しかし、幸せの本質に気づけない間は、「誰かを犠牲にした幸せは、本当の幸福でない」ということに気づくことができない。そうして、後で自分の行動を後悔してしまうことになる場合もある。

体が不自由になっている人を助けたいという気持ちがあったとしても、気持ちだけで相手の体が元に戻ることはない。災害等で身の回りのもの全てを失ってしまった人に「助けを待つのではなく、自ら行動しよう」と言ったところで、元の生活に戻れるというのは非現実的。言うのは簡単だが、結果を出すのは極めて困難か、またはかなわぬ願いで終わってしまうこともある。

しかし、本当につらいのは、自分を支えてくれる人がいなくなること。このことのほうが、よほど不幸である。
それに関連して、相手に自分のことを理解してもらえず、「わたしの気持ちも知らないくせに!」と言ってしまったら、そこで相手との関係は終わってしまう。たとえ、それが本心でないとしても……。

そこで、「助ける」ということの意味を考えてみる。何を助けるのか?
ざっくり言ってしまえば、「孤立することを防ぐ」ことで相手をサポートすることこそ、本当の意味での人助けになるのだと思う。それは、助けようと思っている人だけでなく、助けられる立場にある人にとっても同じ。双方がそのことに気づけたとき、はじめて現実の状況下での「幸せ」を感じることができ、それが生きていくための支えになるのだと思う。

もう少しわかりやすくいえば、ミラクルライト。ライトを振って「がんばれ」というのはたやすい。しかし、それだけでは伝わらないものもある。強い気持ちがないと、相手に自分の意思が届かないことがある。

以上、「助ける」の意味について考察したが、やはり「自ら考え、行動する」ことも必要。人形の国で自分のゆめをみるのは楽だが、ゆめ(「夢」とは区別して使用しています。以前の考察も参照)である以上、それは幻想でしかない。気持ちの支えをもらい、現実の世界へ戻る決意をするのは、自分自身。そうして、気持ちの支えになるのが、友だちの存在。このへんは、今までに何度となく主張されてきた内容ではある。

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さて、本ウェブログ管理者は、S☆Sの頃から何度か本シリーズの舞台挨拶に立ち会う機会がありましたが、毎回話を聞いていると、「演じている方がキャラクターと一体になり、台本等から読み取れるストーリーや台詞に気持ちを揺さぶられ、それがアフレコの演技に反映されている」ような部分があるように感じます。また、演じている方が完成した作品を観て涙することも多いと聞いています。
当然、スタッフやキャストがこの作品でいろいろ主張しても、観客の置かれている立場を直接変えることはできませんが、この作品が観客の魂や感情を揺さぶり、辛い現実を生きていく現代人の心の支えになるのだとしたら、制作サイドが、愛乃さんたちが観客にハピネスを注入できたのだと思いますし、また作品の意図が伝わった証拠になると思うのです。

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そうそう、最後に本編で一つ気になったことがあったから言っておくけど、本来レディーに対しては、BravoではなくBravaと言うべきなんだぜ(某サングラスをかけたレディー風に)。