幻想の国のバレリーナ Ver.2.0

映画「人形の国のバレリーナ」二回目鑑賞後の考察、というか所感。

毎年、舞台挨拶の際に登壇したキャストの方々は、口々に「一度といわず、二度三度観てください」とおっしゃっているが、おそらくそれはビジネス的な理由ではない。その本質は二度目、三度目の鑑賞で感じることができるだろう。
二回目以降は、物語の大まかな展開がわかっているので、一つ一つの場面を注意しながら見ることができる。その中で、「このシーンは伏線なのだな」ということがわかってくる。そうして、それが何度も繰り返されると、「これが今回の主張の一つなのかな?」ということも見えてくる。
(以下、一部でネタバレとなる可能性のある表現が含まれています。続きをごらんになる際は、ご注意ください。)

操り人形をしまう箱の中から出てきた、謎の「人形」。一見、自分の意思で動いているように見えるが、実は無線式(紐がついていない、という意味で)の操り人形だった。人形の国で自由に踊っているつもりだったが、実は踊らされているだけだった。当初、自分自身では気づいていなかったが、自由に踊れているのに、不幸を紡ぐ機械?が停止しなかった(それも、わざわざ停止していないことがスクリーン上で見えるようにしていた)ことを考えると、何か満たされないものがあったといえるだろう。

相手の黒幕は、その少女が踊れない(歩けない)ことのほかに、友だちがいないことについてもつけ込んでいる。足が不自由になったのは可視化された不幸だが、友だちや仲間がいないのは、目に見えない不幸。そうして、歩けなくするという罠を仕掛けたのも、後者のほうがより重いということを承知の上での行為(少女がことの本質に気づいてから、不幸を紡ぐ機械の回転速度が速まっていることからも、それが伺える)。

では、なぜそんな状況に陥ってしまったか?おそらくは、(見える部分で)不自由のない友だちが気遣いしてくれたとき、「あなたにこの足を治せるの?」とか、「わたしの気持ちも知らないくせに」のようなことを言ってしまったがために、少女が自ら友だちを遠ざけてしまったのだろう。そうして、愛乃さんにも「この足を治せるの?」と言ってしまって突き放したとき、少女は過去のことを思い出し、後悔してしまったのだと思う。愛乃さんたちが一度現場から退避する場面を挟むことにより、視覚的にも心が離れていくことが表現されていた。

もう一つ大事なポイントが、他の人形たちとの関係。当初は、彼らも少女の「歩けない、踊れない」という部分に着目してサポートしていたが、後に「王子様」は、自分が少女から愛情をもらえたことを感謝していた。その言葉を聞いて、少女の心の空白は少しずつ満たされるようになったのだろう。
それを完全に埋めてくれたのが、愛乃さんの「友だち」宣言。不幸の糸でできた繭に閉じ込められた(というよりは、心を閉ざしてしまったことの象徴)中をかき分けてやってきた愛乃さん。本気で相手のことを思わなかったら、繭の内側に入ってくることはできなかったはず。
今までは、人間対人形ということで与える一方だった愛情。相手が人形なだけに、相手から感謝の言葉をもらうことはなく、一方通行の愛情。かつての「友だち」は既に離れてしまったため、自分自身にむけての愛情を感じることはなかったはず。そんな中、愛乃さんによって愛情を「受ける」側の気持ちを感じることができたため、少女の心の空白は埋められたのだと思う。

「この人、何言ってるのかな?」という声が聞こえてきそうだが、まさにそのとおり。今回の映画は、感情を揺さぶるもの。正直なところ、文章で表現するのは難しいものがある。表向きのターゲット層だけでなく、保護者等を含めた大人の方々にも訴えるものは大きいと思うので、まずは一度映画を観て、作品が放つメッセージを心で受け止めてほしいところ。

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【おことわり】
この映画に限らず、ストーリーの解釈は人によって様々です。そのため、制作サイドが意図していたものとは違う感想となる可能性がありますが、多様性は重要な要素だと思いますので、その場合においてもそのまま掲載することにします。