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主にインターネット上で評価が大きく分かれている「2」の第九話。本ウェブログ管理者も、初見であまり前向きな印象を受けなかったのですが、記録したものを観直してみると、様々なものが見えてきたという話。

【おことわり】
第九話を観直した結果、前回の視聴感想(新しいウィンドウ・タブで開きます)から考え方が変わった部分があります。ご了承ください。

「2」も、その前のアニメーション作品でも、「野生の生きものが『フレンズ』化した」という認識で見ていた方が多いと思いますが、そうなると、野犬ではなく飼われていた「イエイヌ」が「フレンズ」として登場したことと整合性が取れなくなります。

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とにかく、人に会いたかったという「イエイヌ」。多くのネコ科の生きものとは異なり、イヌは社会性を持つ生きものとされているのと、上下関係を守るという性質があることを考えると、「人から命令される」や「人が投げたものを取ってくる」などという行為もコミュニケーションの一部になるのだろう。関連して、この話数での登場キャラクタ上下関係は「人>犬>その他」と認識していると思われるので、この場面では「その他」に属する「サーバル」たちに対し、「これまで、『キュルル』を守ってくれてありがとう。では、さようなら。(意訳)」という発言につながったのだろう。
一方の「サーバル」や「カラカル」はネコ科。人になつくこともあるが、基本は単独行動する生きものであることを考えると、時には「勝手にすれば?」という感情に至ることがあるのかもしれない。

多少、言葉つかいがきついように思える、ヒト代表?の「キュルル」だが、一方で困っている「フレンズ」(や人)を放っておけない一面もあるように見える。マンネリに悩むイルカ・アシカのために新しい「あそびどうぐ」を作り出したり、争いに悩むゴリラのために紛争解決ツール?(紙相撲)をこしらえたり……。「イエイヌ」と楽しく遊んでいたのも、その延長だったように見える。

後半、「イエイヌ」は「キュルル」(=この時点での「ご主人様」)のために、傷つきながらも「ビースト」という存在に立ち向かっていった。そんな状態になった「イエイヌ」が「カラカル」に支えられながら(「ぼっち」ではないことに注意)見た光景は、「キュルル」が「サーバル」と楽しそうに話している光景。この場面の画だけを切り取った場合、「『キュルル』は冷血で、思いやりのないキャラクタだ」と見えてしまい、一部で批判的な意見を生んでいる場面である。
しかし、「イエイヌ」はそれを見て、かつてヒトが居住していたときの、自分とご主人様との関係と場面が重なり、「『キュルル』は自分の(本当の)ご主人様ではない。『キュルル』は『サーバル』のご主人様である(実際はそういう関係ではないが)。わたしの(本当の)ご主人様は、いつかきっと帰ってきてくれるはず。」ということを悟ったのだろう。そうして、親しく接するようになっていた「キュルル」の前から姿を消すための口実として、「『おうちにおかえり』と言って」につながったのだろう。
そのときに見せた「イエイヌ」の涙は、今この瞬間まで自分の「ご主人様」でいてくれたということの嬉し涙と、ご主人様がいなくなってしまったときのことを思い出した悲しみの涙の両方だったと考える。

こちらも一部で見られる意見だが、「2」は人と動物との関わり方に焦点をあてた構成になっているのではないか、という考え。もしそうであるならば、「ごほうび」を要求するイルカ・アシカや、「ヒトが(ヒト以外の)動物を支配する」という考え方が作中で描かれていることに合点がいくし、また制作サイドが何を主張しようとしているのか、しっかりと考えなければならないと思う。

この「イエイヌ」が雑種であることが気になる方もいるようだが、おそらくは「雑種」と明記することによって、対象を特定の犬種に絞らないことが理由と思われる。また、「イエイヌ」を登場させたのは、人為的に犬種をつくりだしてきた(コントロールしてきた)という部分を、人が抑えきれなかった「ビースト」と対照させる意味合いがあるのかもしれない。

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このアニメーション作品の話の流れに対し、様々な理由でそれを受け入れられない人がいるのは仕方ないことであり、また万人に受け入れられる作品を制作するのも難しいと思われます。だからといって、画面上の映像やセリフを(都合よく)切り取って否定することを繰り返していたら、そこで議論は終わってしまうでしょう。また、様々な要因でこの作品(やプロジェクト)を認めたくないがために、ネガな部分だけを掘り起こして提示しても、そのやり方では「批評」でも「批判」でもなく「誹謗中傷」に近い印象を与えるので、バイアスのかかっていない一般の方々に主張を理解してもらうのは難しいと思われます(、という意見自体も、彼らに否定されてしまうと思いますが)。

国語の長文読解にある記述式問題の場合は、ほとんどの場合に正答がひとつしかない一方で、「一つしか答えがないのはおかしい。人によって感じ方が異なるので、解答は人の数だけある」という考えを持つ方々もいます。

本所では、「2」のバックグラウンドや、各話数の表現等についてのよしあしについては、原則として判断していません。各話数、および全体を通して何を主張しようとしているのかを考察して、もし主張が社会的でなかったり、道徳に反していたりする場合は批評することがあるかもしれませんが、通常は「作品に罪はない」はずなので、まずは締めくくりの話数になるまで同じスタンスで見守っていこうと考えています。